2020年11月30日
マーケティング・リサーチの黎明期を振り返る ―弊社創業期の物語とともに―
社名の候補は「よろず御調査承りどころ」!?
弊社「株式会社マーケティング・リサーチ・サービス」は、1959年11月30日に創始者上田八州(のちに一舟)氏の中目黒の自宅で産声を上げました。
創業のきっかけに関する本人の言葉を辿りますと、こんな話がありました。20代にして「市場調査研究所」という会社の役員をしていた上田氏は、この会社の倒産に伴い社員の退職金を調達しなければならず、金策に走り回っていました。
ある日、債権者である印刷会社を訪問し、そこの社長に「お金を貸して」と頼んだところ、「債権者にお金を貸せという奴はいないよ。」と呆れながらも貸してくださったそうです。
数か月して、家を建てようと貯めていた金融商品を解約して、その社長に返しに出かけると、その社長が「これからは市場調査は大事な仕事だから、あんた、そのお金をもって登記所に行って会社を作ってから戻っておいで」とおっしゃったので、それで登記してからお金を返しに戻った。と。
本当は、会社なんてやる気はなかったそうですが、倒産した会社にいた女性二人がほかの会社の面接に落ち「無給でいいから一緒に仕事しようよ」と毎日自宅にやってくるのに押し切られた形です。
そこに「この会社の仕事をしてくれ」というオファーがあり「動かすお金がない」と言うと、「その会社から博報堂に仕事を発注してもらうので、君は博報堂から仕事を受けて、その資金で仕事をしなさい」ということになったのだそうです。
こうして、無給の女性二人と奥さんとの四人体制で仕事を始めることになったのでした。
社名を「よろず御調査承りどころ(よろずおんちょうさうけたまわりどころ)」としたかったそうですが、英語の方がかっこいい、というアドバイスで現在の「マーケティング・リサーチ・サービス」となりました。
(弊社では社長以下を役職名では呼ばず〇〇さん、と呼びますので、創始者についても、親しみを込めて、以下「上田さん」と表記します。) 上田さんはこの仕事を引退された後、仏門に入られたような人でしたので「サービス(奉仕)」という言葉には当時から特別な思い入れがあり、「クライアント、対象者、従業員などすべての関係者に、こちらから良いものを提供してその見返りとして報酬をいただく。 そして関係者に充分にご恩を返すことで企業は継続できる」ということを強く意識していたようです。
「マーケティングって何?」という時代だった
当時は、国内の企業でも「マーケティング」「マーケティング・リサーチ」などという言葉を口にする人は、まだほんのひとつまみしかいないような時代。
弊社は、まさに業界の黎明期に企業としてのスタートを切ったのでした。
創業した1959年がどんな年だったかというと、当時の皇太子殿下が美智子さまとご成婚をされた年。弊社の社史には、この年のヒット商品として「トランジスタ・ラジオ」が記録されています。
2017年のNHK朝の連ドラ「ひよっこ」で有村架純さん演じるヒロインがトランジスタ・ラジオを作る工場のラインで働いていましたので、そんな時代が背景だと想像できます。インスタント・コーヒーの普及や、カラーテレビの流行がその後だったのを見ると、そんな時に既に「マーケティング」「マーケティング・リサーチ」を社業に決めた上田さんには、かなりの先見の明があったようです。
創業の歴史は1950年8月の、時事通信社調査室が中心となり「市場調査研究会」を立ち上げたところまで遡ります。同時期には、内閣審議室に世論調査部(1945年11月設立)から発展した国立世論調査室(1951年6月設立)が既にあり、この二機関が社団法人「中央調査社」という新調査機関となったのが1954年のことでした。
1952年に時事通信社に入社した上田さんは、二年後の中央調査社の創業と同時に参加しましたが、このマーケティング・リサーチの草分け期に集結した方はいずれも、業界の基礎を作り上げた錚々たる人たちでした。 上田さんは、中央調査社に在籍している間に「パネル店の設計」「広告効果研究」「ダイアリー・パネル」「グループ・インタビュー」など、数多くの仕事を経験しました。「他の人が20年位かけて経験・習得するリサーチの実務と知識を、その道の先駆者からわずか5年程度でマスターした」と、上田さんのアグレッシブな仕事ぶりは、今でも伝説となっているそうです。
そんな上田さんでしたから、1959年に弊社を起業された頃は、社内はもちろんのこと、お仕事を発注してくださるクライアントにも有無を言わせないような迫力があったそうです。それゆえ、あちこちでの衝突もあったようですが、議論を仕掛けられるのはそれなりの裏打ちと自信があってのこと。
最近の業界には「お客さんの注文通りに実施するのが仕事」という空気感が漂っていますが、当時はこんな勢いと気骨のあるリサーチャーが大勢犇めいていたのかもしれません。
創業期の社員は次々に独立。業界を担う力に。
黎明期の当業界は、イノベーティブで優秀な人材にあふれ、今でいうところのITベンチャーのような状態。草分けと言われていた弊社も、創業から数年のうちに、アドホック(単発)のリサーチだけでなく、パネル調査、広告出稿量統計、食卓にあがった食材や献立を記録するメニューセンサスなど、手つかずの領域に次々と新しいサービスを展開し、多くの商材を抱える企業へと成長していきました。
創業期の企業にありがちな空気感だと思いますが、当時の弊社の熱気はすさまじかったそうです。
社員は、上田さんから代わる代わる熱い議論を仕掛けられ、その激しさから、その頃の弊社「株式会社マーケティング・リサーチ・サービス」は巷で「MRS学校」と好意的に(?)揶揄されていたといいます。
当時の社員からは、独立して、その後、この業界を牽引することになる優れた人材を数多く輩出しました。
創業62年目を迎えて
こうして改めて弊社の創業期の物語を調べてみると、黎明期のマーケティング・リサーチ業界が極めてクリエイティブな発想とベンチャー精神に満ちた場所であったことに、驚きを禁じえません。
なにかと閉塞的な時代とはいえ、我々が忘れてしまったような熱を、マーケティング・リサーチの草分け達は持っていたのです。
さて、マーケティング・リサーチを取り巻く環境は、苦労して良いデータを集めることに鎬を削った時代から、瞬時に簡単に集まるデータを「技術」や「ツール」で分析する時代へと変化しつつあります。
便利に使えるツールがデータサイエンス分野に与えた貢献は非常に大きく、消費者行動の解釈も以前より簡単にできるようになってきました。 しかし、上記のような変化は業界に別の変化ももたらしています。ツールの開発領域は、既に他業界からの参入に脅かされていて、従来マーケティング・リサーチの業界が担った仕事の領域は狭められました。また、今後はAIの活用などで、リサーチャーのクリエイティビティや知識が求められる領域は、より限定的になっていくことが予想されています。
しかし、人間の繊細な感情に真に迫ることができるのは、どこまで行っても人間だけ。その時代を読み解く方法を開発し、科学的なアプローチで合理的な解釈を組み立てられるマーケティング・リサーチは、どんな時代になっても求められる仕事であることを、我々は信じたいと思います。
新型コロナウィルス感染者の拡大が、人間の生活をこんなにもドラスティックに変えるのかと震撼した2020年。マーケティング・リサーチを取り巻く環境も劇的に変わり、クライアントと消費者をつなぐ我々の仕事も大きな変化を余儀なくされています。
これからのマーケティング・リサーチには、業界内外にパートナーを求めることでクライアントの課題に迫る方法をより自由に発想し、それを実現させる能力が必要とされるでしょう。 弊社を引退した後に仏門に入られた上田さんは、弊社創立40周年記念式典の中で「宇宙は一つ」と言われました。「会社は存在しない、存在するのはネットなのだ」と話されたそうです。「万物からのご恩を受けて我々が存在する」と。企業が社会の中での存在意義を問われている今、大いに共感を覚える言葉でもあります。
来る11月30日、創業62年目を迎える弊社。多くの業界から支持されたこれまでの実績を再評価してもよいのかもしれません。キラキラ(ギラギラ?)と輝いていた創業期に負けないような魅力を社員全員で取り戻し、弊社を頼ってくださる皆様により一層報いたいと感じます。
―弊社にご縁のある皆様に、改めて感謝の気持ちを込めまして―
(文:常務執行役員 大槻美聡)